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日本語ジャーナル:日本語を「知る」「教える」

日本語教育に必要な文字としての漢字教育

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日本語学習を挫折させる最大の要因――それが「漢字」です。これから新しい日本語という外国語を勉強しようと思った際に、平仮名やカタカナ各約50の文字を覚えるのでさえ容易ではないのに、さらに1000~2000もの漢字という文字を覚えなければならないと知ったら、日本語学習を諦めてしまう人が多いのも無理はありません。これを解決するヒントが文字(形)としての漢字教育にあります。この度、『かんたんルールとパーツでおぼえる きほんの漢字99』を上梓した本田弘之先生に、教材開発に込めた想いをうかがいました。

漢字学習に挫折しないぎりぎりの数字が99

――まず、タイトルにある99という数字の意味について教えてください。

99の漢字を選んだのは、100字ぐらいなら学習者は挫折せずに漢字学習をしてくれるのではないかと思ったからです。そしてこのぐらいの基本的な漢字の形を最初にマスターしておけば、それを応用して画数の多い複雑な漢字もパーツに分けて理解できるからです。

――そもそも外国語を学ぶにあたって文字の学習に苦労するというのは、先生には何かご経験がありますか?

はい。私が昔、中国で日本語を教えていた時に、イ族(中国南部の雲南省に住む少数民族)の話すイ語の教科書を見たことがありました。そこで知ったのはイ語には声調の違いなども含めると約800の文字があるということです。それを知って残念ながらイ語を学ぶことは諦めました。初めに学ばなければならない文字数が多すぎることは、ごく一部の言語オタクのような人を除いて、外国語の学習意欲を萎えさせます。

――なぜイ語の教科書をご覧になったんですか。

少数民族の言葉に興味があり、他にもチベット語や満州語など、さまざまな言語の教科書を中国国内で手に入れました。必ずしもその教科書を読んでさまざまな言語が分かるようになったというとそういうわけでもなく、ただ眺めていて楽しいんですね。

――先生のようにいろいろな言語が好きな方でも、文字数が多いことは障害になってしまうんですね。

実は私の息子が今年小学校に入学して、1年生の9月から漢字を学び始めたんです。昨日も「木」「大」などの習った漢字を書いたものを、私に得意げに見せてくれました。小学1年生で学ぶ学年配当漢字が88字なんですね。そういうことからも、漢字数は100字以内に収めることを目標にしました。

――99の漢字はどういう基準で選んだのですか。

学習者は漢字を学ぶ前に平仮名、カタカナを学んでいますので、カタカナをパーツとして使えるものや、たくさんの漢字に応用が利くものを中心に選びました。選定のプロセスにおいては担当編集者とかなり議論をしましたね。

日本語教育は文字教育を軽視してこなかったか?

――カタカナは元々漢字の一部から生まれていますので、カタカナを漢字のパーツとして学習に利用するのは合理的ですね。

それでも、日本語教育においては文字教育、特にカタカナ教育は軽視されているように思います。平仮名はある程度時間をかけて教えるにしても、その後のカタカナは「自分でやっておいて」などと言って、漢字に進んでしまう教育機関も少なくないと聞いています。それに比べて、小学校では1年生の1学期の時間をじっくりかけて、平仮名とカタカナを同じ比重で教えています。

――なぜ、日本語教育では文字教育が軽視されていると思いますか?

これまでの学習者の多くが中国人などの漢字圏の学習者であったことが大きい要因だと思います。学習者の多くは漢字の形は既に分かる、その一部であるカタカナも特に説明しなくてもいい、そのため文字(形)教育がおろそかになってしまっているようなところがあるのではないでしょうか。これは大きな問題だと思っています。

――特に最近は非漢字圏の学習者が増えてきて、文字習得で困っているという声が教育現場から聞こえてきます。

私の大学は工学系ですので、インド、バングラデシュ、スリランカなど南アジアからの優秀な留学生がたくさんいます。皆さん流暢な日本語を話すのですが、漢字は苦手ですね。どうしても漢字を覚えられないと口を揃えて言います。

――日本語教育と比べて、小学校での漢字教育はしっかりとした文字教育をしているようですね。

今の小学校では、文字教育がとても充実しています。一つはローマ字教育をしっかりとやっています。これはパソコンやスマホでローマ字入力ができるようになるためですね。もう一つは2020年度からの新学習指導要領で小学校1、2学年の書写の授業に取り入れられた「水書用筆等を使用した運筆指導」です。

――水書用筆とは何ですか?

筆に水をつけたり、軸のところに水を入れるようになっている筆ペンを使って「乾けば何度でも使える」専用の紙に、水で文字を書いて文字を練習するんです。私の子供の頃は墨汁を使うしかありませんでしたが、服を汚すということで今はこんな便利なものができているんですね。

――それは知りませんでした。

とても便利なので、私は留学生教育でも水書用筆を使っているんですよ。日本語教育の中には、「どうせパソコンで文字を打つのだから、文字は書いて覚えなくてもいい」という意見もありますが、ある程度の漢字を書いて覚えないと、パソコンの変換候補から目的の漢字を選ぶのにもとても時間がかかってしまうんです。なぜなら、基本的なことを理解していないと、漢字をパーツに分解して見ることができないからです。ただ、その書いて覚えなければならない漢字数は少ないほうが学習者の負担も少なくていいので、99の漢字を選んだわけです。

使用頻度の高い漢字のみを教えていないか?

――日本語教育が学校で行われる漢字教育から学ぶべきところは他にもありますか?

例えば、私の名前の「弘」という漢字を考えてみましょう。「弘」の書き方を聞かれたときに、私は「弓へんにカタカナのム」と説明します。日本人ならこれですぐに分かると思いますが、留学生はこれでは分かりません。なぜだか分かりますか?

――えーと、カタカナは習っているわけですから「カタカナのム」は分かるはずです。そうすると、、、「弓」という漢字が分からないのでしょうか?

そうです。留学生は「弓」という漢字を語彙として覚える必要はないと思います。弓矢を使うようなことはないですし、日常会話にもあまり出てこない言葉でしょう。でも「弓」を使った漢字は「弘」以外にも「引」「強」「弱」など、たくさんあります。小学校では2年生の学年別配当漢字に出てきます。つまり形としての「弓」はとても重要だということです。

――そう言われてみると、確かにその通りですね。これは日本語教育の盲点かもしれません。日本語教育でも、文字(形)教育と語彙(意味)教育を整理して漢字を教える必要がありそうですね。

漢字に限らず、私は「見ることによって情報を伝えるもの」全般に興味があります。文字もそうですし、ピクトグラムなどの公共サインの研究などもしています。これまでの日本語教育に限らず外国語教育は、「会話ができるようになること」「音声による教育」が重視されてきたと思います。しかし、私たちの日常生活において、読んだり書いたりした文字によって行われるコミュニケーションというのは非常に重要だということを、この『かんたんルールとパーツでおぼえる きほんの漢字99』を通して伝えたいと思っています。

――本田先生には、本書の前に、ひらがな・カタカナの文字を覚える教材として、『すぐ書ける! きれいに書ける! ひらがな・カタカナ練習ノート』を書いていただいており、お陰様で非常に多くの日本語教育機関で採用されています。

先に『すぐ書ける! きれいに書ける! ひらがな・カタカナ練習ノート』を使ってしっかり「平仮名・カタカナ」を習得してから本教材に取り組むことをぜひおすすめしたいですね。漢字のパーツが頭に入ってきやすくなり、習得のスピードが上がると思います。

――本教材が出ることで、学習者は平仮名・カタカナ→漢字へのステップが無理なく歩めそうですね。本日はありがとうございました。

本田弘之(ほんだ・ひろゆき)

北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)教授。専門は日本語教育学・社会言語学・言語政策。著書に『すぐ書ける!きれいに書ける! ひらがな・カタカナ練習ノート』(アルク 2014)、『街の公共サインを点検する』(共著 大修館書店2017)、『日本語を教えるための教材研究入門』(共著 くろしお出版2019)、『新・日本語教育を学ぶ』(共著 三修社 2020)などがある。

かんたんルールとパーツでおぼえる きほんの漢字99

かんたんルールとパーツでおぼえる きほんの漢字99

  • 作者:本田 弘之
  • 発売日: 2020/09/23
  • メディア: 単行本